ユータナジーと人の欲

日記

『高瀬舟』

図書館に行って森鴎外の『高瀬舟』を借りて来た。明治を代表する知識人の彼が書いたこの本は、安楽死と罪人の財産について書かれたものである。私はこの本を時々読み返す。例えば、残された寿命が少ない知り合いのお見舞いに行ったその後に、また飼っていたペットの寿命が残り少ないと感じた時などである。生き物の命には必ず始めと終わりがあって、その全てが尊くて大切なものである。…森鴎外の『高瀬舟』は島流しになった罪人(喜助)と護送する役人(庄兵衛)の舟の上でのやり取りを綴ったものである。罪人は弟殺しの罪で島流しにあうが、罪人の行いは果たして罪にあたるのだろうか。弟はもう治りそうもない病気なので、これ以上兄に迷惑をかけまいとしてカミソリで自ら首を切ってしまう。しかし、死にきれず苦しんでいるところに兄が帰って来てどうしたのかと聞くと、苦しくて仕方がないから早く殺してくれと頼んだ。兄は苦しんでいる弟を見て可哀想だから早く楽にしてやろうとカミソリを抜いてやて、結果的に弟は死んでしまうのだが果たしてそれを罪と呼べるのだろうか。難しい問題だ。例えば、大切な家族が死んでしまわないように患者の寿命を伸ばすために延命治療を施すのはどんなものか。寿命は伸びるがもしかしたら患者は後遺症の痛みを受け続けることになるかもしれないし、それは本人が望まない生かされている寿命になるのかも知れない。果たしてそれを選ぶのは患者なのかそれともその家族なのか、どの選択が正しいのかは誰が決めるのが正解なのか。一方鴎外の論点とするもう一つの点、罪人の財産について。島流しの罪人はみな200文を貰うのだが、喜助はその銭を貰って有難いと嬉しそうにする。庄兵衛はたかが200文を貰ってなぜ喜ぶのかと喜助に聞く。すると、喜助は今までの生活では働いても借金返済や薬代で消えてしまい銭はほとんど残らなかった、それなのに何もしないのに200文も貰えるなんて、こんな幸せなことはないと話す。私はこのことについて、人の欲とは際限のないものだと考えさせられた。銭を持ったことがない者が銭を持つとそれだけで幸せだと思う、しかしいくらか銭を持っている者からすると200文は少ないとしか思えない。また多くの財産を持つものは、銭をもっと増やそうとするしそれを奪われまいとするものである…人が満足するということはものすごく難しいことなのかもしれない。このようなことを考慮すれば、弟の願いを聞いてやるために苦しむ弟を楽にしてやり、罪人となって銭を手に入れた喜助は正しい人生の選択をしたといえるのではないか…。

お爺ちゃんハムスター

我が家のハムスター(ポテト)はかなりのお年寄り。とっくに平均寿命は超えて、大きな傷あとを背中に抱えて生きている。寿命があまり残されていないことと、傷を病院に診てもらってもそれをいじることによって寿命を縮めてしまう可能性があることと。大切な選択だが、私はこのまま見守ることの方を選んだ。時々薬を塗ってあげる以外は手をかけないで、ポテトに最後まで私なりの愛情を注いで大切にお世話をしてあげようと考えている。このことを森鴎外の『高瀬舟』と比べるのは大袈裟かもしれないけど、ポテトは、我が家がコロナ禍で巣篭もりをしている時間を穏やかなものにしてくれた。喜びや驚きや発見を教えてくれた、そして今生き物の死についても考えさせてくれている。毎日、えさをあげてお水を変えてゲージの掃除をしてあげて、時々触れて遊んで…そんなことだけど、大切に大切に一緒にいられる時間を過ごそうと思う。

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